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 石油危機の到来とともに、資源に乏しい日本の弱点があらわになり、変動相場制以来1ドル260円台で推移していた為替相場は、一転して円安に向かいました。為替相場が円安・ドル高傾向に動く際は、輸入の多い弊社には逆風となり、今度は為替差損を防ぐことが重要課題となりました。
 そして、輸出の拡大手段として、高田工場のグラスロッド生産を増強し、アメリカ及びその他の地域への輸出を推進することと、そのためのスピーディな新商品の開発が求められることとなりました。

グラスロッドのベンドテスト
グラスロッドのベンドテスト
 昭和50年(1975年)、釣具界はまだカーボンロッドの黎明期。大丸興業株式会社高田工場・釣具事業部では連日、不眠不休でロッドの試作が続けられていました。職人達と新たに迎えられた技術者達が共同で、カーボンブランクがマンドレル(芯金)からうまく抜けないことに苦悩していたのです。
私たちが造るのは、当時から‘竿’ではなく‘ロッド’でした。ここで作ったバスロッドが、アメリカのバスの大手ブランド、ルー・チルドレ社の翌年の主力商品だったのです。
「時間がない、どうすればいい?」
ルー社からも技術者が訪れ、連日連夜、喧々囂々(けんけんごうごう)の議論と試作が続きました。
「脱芯の油圧を強化しろ」
「新しい離型ワックスをみつけだせ」
これが最後の難関でした。
ようやく脱芯できて万歳三唱を唱えた試作第一号は、鉄のマンドレルがブランク先端の内部にちぎれて残って、ティップに磁石をあてると吸い付いてしまい、大笑いするような代物だったことは、いまでも会社の語り草になっています。
翌年、カーボンロッドの生産設備が稼動し、昭和52年(1978年)2月、東京フィッシングショーを皮切りに大阪・札幌・福岡のショーに出品。一般の釣り人のみならず、業者からも好評を博しました。
東京フィッシング・タックルショーに出展(昭和52年2月)
東京フィッシング・タックルショーに出展(昭和52年2月)

 カーボンロッド創生期の一幕は、輸出用バスロッドの大量生産に追われ続けながら、テンヤワンヤで過ぎ去っていきました。
 当時のアメリカでは既に、素材や製法はもとより、テーパーデザインやアクションにおいて、一歩進んだ概念があり、ダイコーロッドの個性というものもこの頃から次第に意識しはじめていくこととなります。
 テーパーバランス設計を究めたブレのないロッドメイキング。その開発のプライオリティとは、スリムでありながら素材の性質をムダにせず、質量に対して、最大限のパワーを発揮できるものであること。特に九州の人間は大物志向が強く、ターゲットも大きい。少々の手荒さであっても、それに耐え得るロッドであることが強く求められました。
 余談ですが、「テーパー/テーパーデザイン」とはそもそも、ブランク基部から先端に行くに従い細くなる(数値の推移)ことを示した概念であり、昨今では‘テーパー’と‘アクション’というコトバが同義のように扱われており、ファストテーパーやスローテーパーという概念がさながら調子(アクション)を示す言葉として広く受け止められていますが、こうした概念は竹やグラスなど、弾性率の低い素材しかなかった時代に作られたものであり、低弾性の素材を、バットを太くティップをより細くしたファストテーパーにすることで、先調子感を出すというアプローチに向けられたものであると言えます。カーボンロッドが創生期、24t.という弾性率の素材しかなかった頃までは間違いのない概念であったわけですが、現代のように多様な高弾性素材がふんだんに用いられるようになった現在では、極めて曖昧な分類であると言わざるを得ません。例えば、スローテーパーのロッドでもバットセクションの素材を高弾性化すればファストアクションになるということでイメージしていただけるでしょうか。数多の素材特性を正確に理解し、適材適所、素材と製法のバランスを追求したものが現在のロッドメイキングのスタンダードの一つなのです。