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フィッシングロッドブランド・ダイコーの生い立ちについて語るには、長い歴史のある、現在の大丸興業大分事業所の設立からお話しなければなりません。


釣竿用竹材の結束作業風景
昭和26年(1951年)1月、優れた竹材の集散地であった大分県豊後高田地方にて、輸出用竹材の加工生産業に端を発し、日本チクレン株式会社を吸収合併、大丸興業高田工場・貿易部竹材課として発足されたのが、現在のフィッシング部の源流となります。
当時の加工場は大分県豊後高田のほか、神戸市灘区にもあり、昭和28年(1953年)には世界最大小売業者の百貨店、シアーズ・ローバック社(米)に竹材加工品の供給をはじめ、数年後にはその輸出量は業界第一位となりました。

 そしてこの頃、私たちにとって、また、本当の意味での日本のルアーロッドメイキングの礎となる、運命とも言える出来事がありました−それがルー・チルドレ氏との出会いです。
 昭和29年(1954年)、福岡で当社高田作業所(*現大分事業所:大分県豊後高田市)所長の安井英雄(*元当社取締役)は、アメリカ南部・アラバマ州フォーレイから来たというチルドレ氏と出会いました。このアメリカ青年は、日本旅行の途中、福岡市内のさる釣具専門店を介して安井英雄に会い、自分の望む釣り竿の製作について熱心に語りました。青年は前述のフォーレイで自ら釣竿を作って販売しているというが、釣竿にかける熱意は真摯であり、研究心もなみなみならぬものがあったのです。安井は話すうちに親しみを覚え、意気投合するところがありました。
そして、早速、高田作業所で彼の求める釣竿の製作に取り組むことにしたのです。
 チルドレ氏が高田作業所へ現われた頃のことは、当時、安井のもとで経理を担当していた桜井保子がのちに次のように回想しています。「安井所長が福岡でチルダーさんに出会い、工場に伴ってこられました。竹竿の元を持ちポンと叩くと、『ポキン』と折れたのには驚きました。そのうち、チルダーさんが技術指導のため、高田に長期滞在されることが多くなりました。田舎のこととて昼食をとることも叶わず、名コックならぬ私が食事の支度をするはめになりました。夜は料理の本と首っ引きでしたが、‘美味しい’と食べてくださった時はほっとしました。」
 のちに安井英雄は、出会った頃のチルドレ氏を次のように描写しています。
「彼とは福岡市で初めて出会い、それが縁で彼と取引をすることになったが、当時の彼は27歳、アロハシャツにナッパズボンで、山出しのアメリカ南部の田舎者であった。」
 しかし、この青年に惹かれたのは当時の専務、柴田も同じでした。チルドレ氏と引き合わされた柴田は、すぐさまこの人物の熱意と資質を高く評価し、当社の協力と支援を約束したのです。


試作にかかると、チルドレ氏は素材、パーツの材質、加工方法、調子、デザインのすべてにわたって厳しい注文を出し、自ら現場で指導を行ないました。彼が近い将来、アメリカのマーケットに持ち込もうと考えていたのは、アメリカ内陸部の広大な湖沼をボートで走り、一種のスポーツのように、大型のブラックバスなどとファイトするための強力なルアー竿であったのです。
 それまで高田作業所の主力製品といえば、カットポールや竹簾などでしたが、チルダー氏との出会いによって、次第に釣竿の製造が中心になっていきました。加工技術の向上や設備の拡張と同時に、竿に適した竹材を求めるため、霧島山麓に試験林5ヘクタールを購入し、京都大学や九州大学の研究者の協力を得て、品質改良にも努めました。
試験竹林
試験竹林
竹竿加工現場(高田作業所)
竹竿加工現場(高田作業所)
こうしてチルダー氏の熱心な創意工夫と、これに惜しみなく協力した安井英雄をはじめ高田作業所の人々の努力が実り、当社はチルドレ社に向けて、初めて釣竿3万本を船積みすることができました。
 昭和32年(1957年)以降、アメリカ向け輸出は本格化し、高田の従業員も100名を超えることとなります。アメリカ向けの製品はすべてルー・チルドレ・アンド・サンズ社を通して販売しました。
まだ、バンブーロッドの時代の話ですが、日本では3大竹材業者の仲間入りを果たし、まもなく日本で一位の座を勝ち取ることとなりました。チルドレ氏自身もこれによって釣具業者として基礎を固め、弊社の釣竿輸出額はその後10年の間に年間約10億円に達し、チルドレ社のセールスマンによって全米に広く販売されました。

昭和33年ごろの神戸工場の従業員
昭和33年ごろの神戸工場の従業員

 ふとした出会いから始まった両者の協力関係は、その後ますます強固になっていきました。
 昭和46年(1971年)、バンブーロッドの需要減退により、市場の釣竿は、竹からグラスファイバーの時代に移行。当初はアメリカ製の素管(ブランク)を購入し、組み立て加工から始めましたが、まもなくブランクの生産設備をアメリカより導入し、一貫生産に入ることとなります。国内市場においても、グラスロッドの分野は大手専門メーカーの激しい競争に晒されていたのですが、新たに資金を投じて工場を拡張、敷地3000坪を持つ釣竿メーカーとして変貌を遂げた高田工場で、チルダー氏と当社の技術陣が共同開発した「スピードスティック」は代表的なヒット商品となります。そのスポーティで精悍な黒い外観だけでなく、従来の金属製ハンドルやガイドに替えて、ハンドルには耐水性、耐久性抜群の合成樹脂を使用し、またガイドには合成アルミナを使用するなど、パーツにも独創を加えたものであり、なおかつ本体は比類なく強靭に仕上げられていました。

開発当時のスピードスティック
開発当時のスピードスティック
これが高田工場の念入りな組立と検査を経て送り出されると、一挙に注目を集め、一時は注文に生産が追いつかないほどの好評を得ました。こうして、チルドレ社は全米でも有数の釣具業者にのし上がることになるのです。
チルドレ氏と堅い握手をかわす井上社長 昭和49年(1974年)ルー・チルドレ社発祥の地、アラバマ州フォーレイ市にて
チルドレ氏と堅い握手をかわす井上社長 昭和49年(1974年)
ルー・チルドレ社発祥の地、アラバマ州フォーレイ市にて
 その後、日本でもルアーフィッシング・ブームが起こりましたが、この「スピードスティック」は愛好者の間で噂の名品として語り継がれることとなりました。
日本では、‘バスフィッシング’あるいは‘ルアーフィッシング’という至高のゲームがほとんど知られていなかった時代から、私たちはルアーロッド開発に取り組んできたのです。もちろん、その背景には、今も昔も変わることなく、私たちのロッドを必要とするアングラーの存在が不可欠であることは言うまでもありません。